ネズミを妖精の家だと思おう。
昔、王様は、ネズミが生まれたとたん、強制的に断種手術を行った。ネズミを独占して見せ物にしていた王様は「ネズミが勝手に増えると困るから」と 考えたのだ。
王様は自分の皮算用で、利潤を最大化できるように、少数のネズミだけを管理して育てた。人間の計算などあてにならない。王様印のネズミはどれも似 たり寄ったりで、しだいに飽きられ、王宮は寂れた。妖精たちはネズミを家にするのをやめた。王様はネズミに断種手術を施していたので、次世代のネズミは生 まれず、そこでネズミは絶滅した。
それでも、王宮の外の森では、野リスが勝手に繁殖していた。その森にふさわしい個体数と多様性を自律的に保ちながら。
人間たちは、断種手術を施された王様のネズミを哀れに思ったけれど、それを愛することはできなかった。でも、人間たちは、かわいい野リスには思わ ず微笑みを浮かべ、頼まれてもいないのに、えさを与えた。ヘルシンキの公園で見られるように、ひざの上に飛び乗ってきた野リスが、あなたのパンを無心に食 べるのをみて、あなたもなぜか幸せだった。
こうして、王様と王様のネズミは滅び、人間と森のリスはいつまでも幸せに暮らしました。
以下は、著作権法(法庫.com)。をざっと拾い読みしたど素人の「かんそう」です。
第1条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利 を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
著作者は「著作者人格権」と「著作権」を持っている(17条)。
「著作者人格権」(18, 19, 20条) | |||
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18条 | 公表権 | 著作者 | 未公表のものを公衆に提供、提示する権利。 同意を得ないで公表された著作物を含む。二次的著作物も同様。 |
19条 | 氏名表示権 | 著作者 | 公表の際に、著作者名を表示・非表示にする権利。 二次的著作物も同様。 |
20条 | 同一性保持権 | 著作者 | 著作物及びそのタイトルの同一性を保持する権利 |
※当ブログではこれらはひっくるめて「原著作者の名誉」とか「作者への敬意」とか書くことが多いです。
「著作権」(21条から28条) | |||
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21条 | 複製権 | 著作者・専有 | 複製する権利。 |
22条 | 上演権 演奏権 |
著作者・専有 | 公衆に直接見せ、聞かせるために(公に)上演や演奏する権利。 |
22条 | 上映権 | 著作者・専有 | 公に上映する権利。 |
23条 | 公衆送信権等 | 著作者・専有 | 公衆送信(自動公衆送信の場合、送信可能化を含む。)を行う権利 公衆送信される著作物を受信装置を用いて公に伝達する権利 |
24条 | 口述権 | 著作者・専有 | 公に口述する権利 |
25条 | 展示権 | 著作者・専有 | 美術の著作物又はまだ発行されていない写真の著作物をこれらの原作品により公に展示する権利 |
26条 | 頒布権 | 著作者・専有 | 映画の著作物をその複製物により頒布する権利 ※ゲームは「映画の著作物」 |
26条 | 譲渡権 | 著作者・専有 | 著作物をその原作品又は複製物の譲渡により公衆に提供する権利 (映画の著作物を除く、以下同じ) (映画の著作物において複製されている著作物にあつては、当該映画の著作物の複製物を除く。) |
26条 | 貸与権 | 著作者・専有 | 著作物をその複製物の貸与により公衆に提供する権利 (映画の著作物を除く。) (映画の著作物において複製されている著作物にあつては、当該映画の著作物の複製物を除く。) |
27条 | 翻訳権 翻案権等 |
著作者・専有 | 著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案する権利 |
28条 | 二次的著作物の利用に関する原著作者の権利 | 二次的著作物の著作者・専有 | 二次的著作物の原著作物の著作者は、当該二次的著作物の利用に関し、この款に規定する権利で当該二次的著作物の著作者が有するものと同一の種類の権利を専有する。 |
※これらは「著作財産権」とも言います。だいたいカネになるから。当ブログでは経済私権という意味で「著作利権」と書くことが多いです。
実はこれらは基本的なものだけで、ここから「出版権(79条)」と「著作隣接権(89条~104条)」が派生しているようです。特に後者はざっと「なんとか権」とつくものだけで↓
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原文サイトでは右サイドに改訂履歴へのリンクがあるのですが、そっちは有料なんで数だけ数えました。
《改正》190個 に 《追加》79個、しめて269。
全て平成9~18の範囲です。10年間で269。全124条だから毎年21.7% の条文変化率。来2008通常国会でまた変わるってハナシだし(違法ダウンロードの30条除外とかは、たしか安倍内閣の方針でもありました)、きっと5年後には別のナニカになってるw。
自分の理解では、これは千客万来の温泉旅館です。やれ建てろそれ増築だってカンジで、いずれ築て直さないと遭難者が出そうです(なおその際は魚の泳ぐ戦国風呂と自前の消防隊を所望します)。たぶんこの記事にも「御社の著作権知識は大丈夫?」って広告がつくと思うのですが、大丈夫な会社あんのかw。
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この状態が続くと、世の中がムダに複雑になるように思います。「泥棒はダメ!ゼッタイ!」みたいな原則抽出が難しいから。
となると、みんなが自分に取って都合のいい部分をつまみ食いして主張し、そのどれもが一見ただしく見える(または実際に正しい)ので真面目に時間を割いてかんがえなきゃならない、という事が起きます。
例えば「映画の著作物」には「頒布権(ヒトサマに配布する権利、有償無償問わず)」がありますが「譲渡権(譲り渡す権利)」がありません。ただし「映画の著作物の複製物」は譲渡可能です。わけわかんないでしょ?具体的にはここから「DVDやゲームの中古売買は違法!違法!禁止!」という理屈が立ちます。んな莫迦な!寝言は寝て言え!と言っても、理屈としては立つのです。「譲渡はしたがお客さん以外に頒布したのではない」です。実際に「中古ゲームソフト訴訟」という裁判でゲーム業界がこの理屈で中古業者を訴えました。あ、ゲームは「映画の著作物」なんですよ一応(但し静止画主体のゲームは別w)。
最終的に「複製物にかかる頒布権は、最初に販売した段階で"消尽"する」という判決が出ましたが、法律に「頒布権」があるって書いてある以上は「それはどっかで"消尽"する」って判決が出るまで、または新しい法律ができるまで、中古業者とゲーム業界が洗脳戦を展開する事になります。消費者向けの広告とか。当時の消費者の反応は「中古ゲームソフト訴訟」でぐぐれば遺跡が見れます。よーするに「んなヒジョーシキな!」で済む事をオカネと時間をかけて最高裁までやったわけで。マータイさんではありませんがモッタイナイ感が漂います(なお頒布権の成り立ちについては次の記事で簡単に書きます)。
「頒布権」の有無も、それがどの段階で「消尽」するのかも、誰が見ても解るというものではありません。「ばかには見えない服」です。
本来こうした経験 ~みんなが自分で考えて意見を言う~のは民主制では非常に重要な経験です。なのですが、元の法律があまり複雑ですと面倒がる人の方が多くなります。その結果、みんなが自分に取って都合のいいものは信じ、都合のわるいものはどんどん信じなくなって行きます。それは「法の支配と民主制の危機」というものだと思 います。
なにより、あまり細かいルールを増やすと「ルールブック解釈屋」「風紀委員」の仕事が増えます。そういうのが必要なのは解るしオカネも動くけど「たのしくはならない」んだよね。
作品ビジネスの成長を願うなら、プリンシパル(根本原則)はシンプルなほうが良いです。
ちなみに当ブログでは全てのチョサクなんとか権を「ねこがみさまに寄進」しています(でも引用、翻訳箇所は原本のライセンスに注意デス)。
以下は、著作権法(法庫.com)。をざっと拾い読みしたど素人の「かんそう」です。
ポイント
1「映画の著作物」には「譲渡権」が無い。用語
頒布:「配布」すること。→ 有償無償は関係ない。
譲渡:「所有権を移転」すること。→ 有償無償は関係ない。
もんだい
著作権者が「映画の著作物」の複製を作って売る場合(DVDやゲーム)、それは「譲渡」か「頒布」か?。
~1~
昔、映画館のオヤジがフィルムを勝手に複製したり、中古売買したりという問題があった。これに困った映画会社は、アタマをひねって「映画の著作物」とか
「頒布権」などの概念(莫迦にはみえない服)を編み出し、法律に加える事に成功した。これがあ
ると「君はこの映画のフィルム持っててもいいけどアンタはダメ!」みたいな事ができる。また「君は明後日まで持っててもいいけど明々後日はダメ!」みたい
な事もできる。つまり、映画会社が、自分で作った映画を、いつ、どこの映画館に掛けるかをコントロールできる。
その結果、映画会社は次回作の製作資金をきちんと回収できるようになった。つまり成立時点の社会~邦
画黄金期~では「妥当なルール」だった。
~2~
その後、闇業者がゲーセンのゲームのデッドコピーを安値で売る、という問題があった。社会全体としては小さな問題だったが、ゲーム会社は大いに困った。
彼らはアタマをひねって「ゲームは映画の著作物」という理屈を編み出して、裁判に勝った(パックマン訴訟)。
これにより、ゲーム産業は次回作の製作資金をきちんと回収できるようになった。つまり成立時点の社会~インベーダーハウス黄金期~では「妥当なルール」だった。
余談ながら、これが我が国における「プログラムの著作権」の始まりである。
~3~
ここまでの経緯から日本の著作権法では、映画とゲームは「頒布権アリ・譲渡権ナシ」となった。
その後、ゲーム業界は中古ゲームソフト売買の禁止訴訟を起こしたが敗訴した。ユーザーへの販売は「有償頒布」であって「譲渡」ではない、という理 屈だったようだが、判決は「ゲームソフトには消尽しない頒布権がない」。つまり、最初に販売した時点で頒布権は消えてなくなるという事のようだ。映画 DVDはどうなのだという疑問は脇に置く。
自分はこれで良いと思う。つまり、この時点の社会~概ね1998から2002頃~にとっては、ゲーム会社の主張は妥当なものでは無かったのだ。ま た、法律がどうあれ、生きて動いているニンゲンの常識的な考え方のほうが優先だろう。
法律上は「映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者(16条)」とある。言い回しが難しいけど、これは納得出来る。「作り手への敬意」は一般的にカントクや役者や、ちょっとマニア入ってるとカメラマンや音響の人に向けられるからだ。
しかし映画、アニメ、テレビ番組、それからゲームは、とても大勢の人が協同で製作するものだ。いろんな機械も買わなければならないし電気代もかかる。そもそもカントク一人で映画ができるもんでもない。そこで通常は大きな会社が社員を雇ったり、才能のある人と契約したりして製作する。
、、、となると「職務上作成する著作物の著作者(15条)」が効いて来る。
第15条 法人その他使用者(以下この条において「法人等」という。)の発意に基づきその法人等の業務に従 事する者が職務上作成する著作物(プログラムの著作物を除く。)で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契 約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。
日本ではそんな事いちいち言ってたら仕事 が前に進まない。つまり一般的には映画会社。転じて放送番組では放送事業者が「著作権」を持っている。
作り手へ敬意は、一般的にカントクや役者など「サクヒンの全体的形成に創作的に寄与した者」に向けられるもの
です。
特に映画会社や放送事業者やゲーム会社に向けられるものではありません。
だからってうっぷを正当化するようなタイプの人はほっとくにしても、やっぱ疑問は残るのです。
視聴者から見た「著作権をまもる」には「サクヒンの全体的形成に創作的に寄与した者」に妥当な報酬が渡っている限りにおいてのみ、意味があると思 います。
原 文:青空文庫 - 伊丹万作 著作権の問題伊丹万作
社会の各層に民主化の動きが活溌になつてくると同時に、映画界もようやく長夜の眠りから覚めて――というとまだ体裁がよいが、実はいやおうなしにたたき 起された形で、まだ眠そうな眼をぼんやりと見開きながらあくびばかりくりかえしている状態である。
しかし、いつまでもそんなことではしようがない。早く顔でも洗つてはつきり眼を覚ましてもらいたいものだ。
さて、眼が覚めたら諸君の周囲にうずたかく積まれたままになつている無数の問題を手当り次第に一つ一つ片づけて行つてもらわねばならぬ。中でも早速取り 上げてもらわねばならぬ重要な問題の一つに著作権に関する懸案がある。ここでは、この問題に対する私見を述べてみたいと思う。
従来の日本の法律がはなはだ非民主的であつたことは、我々の国体が支配階級の利益のみを唯一の目的として形成し、維持されてきたことの当然の結果である が、その中でも、社会救済政策、および文化保護政策の貧困なることは、これを欧米の三、四流国に比較してもなおかつ全然けたちがいでお話しにならない程度 である。
法律によつて著作権を保護し、文化人の生活を擁護することは文化政策の重要なる根幹をなすものであるが、我国の著作権法は極めて不完全なものであり、し かもその不完全なる保証さえ、実際においてはしばしば蹂躙されてきた。しかし、既成芸術の場合は不完全ながらも一応著作権法というものを持つているからま だしもであるが、映画芸術に関するかぎり日本には著作権法もなければ、したがつて著作権もないのである。もつとも役人や法律家にいわせれば、映画の場合も 既存の著作権法に準じて判定すればいいというかもしれないが、それは映画というものの本質や形態を無視した空論にすぎない。なぜならば現存の著作権法は新 しい文化部門としての映画が登場する以前に制定されたものであり、したがつて、立法者はその当時においてかかる新様式の芸術の出現を予想する能力もなく、 したがつて、いかなる意味でも、この芸術の新品種は勘定にはいつていなかつたのである。
次に、既存の著作権法は主としてもつぱら在来の印刷、出版の機能を対象として立案されたことは明白であるが、このような基礎に立つ法令が、はたして映画 のごとき異種の文化にまで適用ができるものかどうか、それは一々こまかい例をあげて説明するまでもなく、ただ漠然と出版事業と映画事業との差異を考えてみ ただけでもおよその見当はつくはずである。そればかりではない。映画が芸術らしい結構をそなえて以来今日に至るまで、我々映画芸術家の保有すべき当然の権 利は毎日々々絶え間なく侵犯されつづけてきたし、現にきのうもきようも、(そしておそらくはあすもあさつても)、我々の享受すべき利益が奪われつづけてい るのは、我々の権利を認め、かつこれを保護してくれる法律もなく、また暫定的に適用すべき条文すらもないからにほかならないのである。
したがつて、我々映画芸術の創造にあずかるものが、真に自分たちの正当なる権利を擁護せんとするならば、何をおいてもまず映画関係の著作権法を一日もす みやかに制定しなければならぬ。しかして、映画芸術家の正当なる権利を擁護して、その生活を保護し、その生活内容を豊富にすることは映画芸術そのものを向 上せしめるための、最も手近な、最も有効な方法であることを忘れてはならぬ。
さて、次にその実現方法であるが、これには二つの条件が必要である。すなわち、まず先決問題としては立法の基礎となるべき草案をあらかじめ我々の手によ つて練り上げておくことであり、第二の段階としては、従業員組合の組織をつうじて、あらゆる機会に政府あるいは政党に働きかけて草案の立法化促進運動を果 敢に展開することである。
右のうち、草案の内容については、私一個人としては相当具体的な腹案を持つているが、しかし、それを発表することは本稿の目的でもなく、また、それには 別に適当な機会があると思うから、ここではくわしいことは一切省略しておく。
ただ、参考のため、私の意見の根底となつている、最も重要な原則だけをかいつまんで申し述べるならば、私は自分の不動の信念として、人間の文化活動のう ち、特に創作、創造、発明、発見の仕事に最高の栄誉と価値を認めるものである。(未完)
底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
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