理工系とひとくくりにされがちだが、理と工の差は、通常想像されるよりもはるかに大きい。理学は自然を理解する事を目的とする学問で、その基本には「妥協なき真理の追究」という態度がある。それに対して工学は、理解した自然の力を応用する学問であり、基本にあるのは「いかに高いレベルで妥協するか」という精神だ。
国産ロケットはなぜ墜ちるのか(AA) - P151
「芸人は,米一粒,釘一本もよう作らんくせに,酒が良いの悪いのと言うて,好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに,むさぼってはいかん。ね うちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に,世間へのお返しの途はない。また,芸人になった以上,末路哀れは覚悟の前やで」
~桂米団治。入門する米朝に向けた言葉。(落語と私 (文春文庫)
)
重要なのは、武器ではなく、その使い方…戦術なのです。
腕には腕の、剣には剣の戦い方があります。
本物のサムライとは、要するに目にうつる全ての物を武器にして戦う者ですよ。
千の戦場で、千の戦い方で千の勝利を収める。
それがサムライであり、あなた方が最終的に目指す存在です。千の戦いを覚えなさい。
私の授業は、腕には腕の、銃には銃の戦い方を教えること。
よく覚えなさい。これを戦術と呼びます。
強いのは、能力があるとか、性能がいいとかではありません。
一人の意思を持った人間が、明確な目標の下で戦術を駆使することが強いのです。
その気になれば、指一本、鉛筆一本でも幻獣は殺せます。
私が育てるのは、その強い人間です。
明確な目標…命令の下で、戦術を駆使するサムライを育てるのです。
~坂上久臣(坂上語録)- 高機動幻想ガンパレード・マーチ
強さとはね…要するにパターンをどれだけ知っているか、ですね。
パターンを知る量が強さですよ。よく覚えておきなさい。
~坂上久臣(坂上語録)- 高機動幻想ガンパレード・マーチ
戦術は移動ですよ。いつもポジションを的確に押さえなさい。
~坂上久臣(坂上語録)- 高 機動幻想ガンパレード・マーチ
最後に一つ。ゲームを作って売るのは仕事だが、少しばかりは、夢や希望があるほうがいい。
それがまっとうな社会と言うものだ。
~芝村裕吏 - 高機動幻想ガンパレード・マーチ
このゲームは高性能を追求する途中で人間工学的配慮を完全に切りました。
ゲームが人間様にあわせるのではなくて、人間がゲームに適応する、これはそういうゲームです。
その代わりに、機械的性能ではこのゲームでは最高最良を保障します。
人間工学的配慮を削って浮いた予算は全部性能向上にまわしました。単純予算比ではここまで極端なシフトをひいた例はないと思います。本物のゲームというものは、プレイヤーがゲームを征服して、ついには人機一体となって限界に挑戦するものです。
私は、現状ゲームのもつ限界=レコードを全部絢爛とその使い手で書きかえるために、ジャジャ馬をつくりました。このゲームを扱える ということがプレイヤーの名誉であり、作り手の名誉であることを祈願してそう設計しています。
もちろんこれは、初心者や女性を切り捨てているわけではありません。
単に要求しているだけです。使いこなせと。
初心者だろうが女性だろうが人間でゲーマーなら後はセンスと努力の問題であると考えています。
なに、そんなに難しいことではありません。心にイメージをかき抱き、工夫し続ければいいだけの話です。
~ 芝村裕吏(絢爛舞踏祭・開発者インタビュー)
ねだるな。勝ち取れ。さすればあたえられん。
~アクセル・サーストン(交響詩篇エウレカセブン)
僕は絶望していない。だから、これは絶望病じゃない。
~ウィル・バクスター(交響詩篇エウレカセブン)
自由とは、獲得しなければならないものであって、無償で与えられるものではない。
自由である事とはその責を負い、覚悟する事だ。
自分で考え、自分で決めろ。
~チャールズ・ビームス(交響詩篇エウレカセブン)
もちろん、マス=mass=大衆的 というような意味。まあ、じゅっぱひとからげ?のセールス的アプローチを指す。 けど個人的にはマス=マスターベーションと捉える方がより現実性が出ると思う。まあコンなのは、腐った曲って事。「壱を突き詰めた果てに出てくる物が真の包み込むものであって、平均を取ると1番腐った物が出てくる」というのが、人間に与えられた唯一の答えだと思ってる。
この読み仮名を知ってたら結構大したもの。「けれんみ」と読みます。「守破離」と同様に、日本に古くから伝わる言葉かな。昔、「お前の型は外連味がある」と言われて始めて知りました。結構ショックだったけど、この言葉があったら稽古を続けたのだと思う。様するに、「外に連なる味」って事、まあ卑近に言えば、「かっこうつけてる」でいいと思う。
virtual /və́ːrtʃuəl/
形容詞⦅限定⦆
1 (名目上はそうではないが)実質上の, 事実上の, 実際(上)の
the virtual head of state in the President's absence|大統領不在の際における実質上の国の首長.
Mac OSX 10.5付属 英和/和英辞典
「仮想現実」という訳語のおかげで「バーチャルなんかじゃなくて本当の」みたいな言い回しが普通になっているが、本来の "virtual" はもうすこし「実」がある。イキナリだがここオレ的に大事なので。「英辞郎 on the Web」でITっぽくない用例を拾うと次のようなものが並ぶ。
まるで「仮想」っぽくない。
「希望退職という名の指名解雇」とか「天下りと言う名の接待」とか、いろいろ応用できそうだ。よーするに「名目より実質」にフォーカスしたいときに使う言葉という印象を受けた。
語源は"virtue" らしい。これは徳や美徳といった意味で、そこから長所、効き目、効力、、、といった意味がある。
厳密にはVirtualは「完璧に同じというわけでは無いものの、実質的に同等の効果を発揮する」というほどの意味のようだ。
参考:The Nightingale Pledge
I solemnly pledge myself before God, and in the presence of this assembly, to pass my life in purity and to practice my profession faithfully.
I will abstain from whatever is deleterious and mischievous, and will not take or knowingly administer any harmful drug.
I will do all in my power to maintain and elevate the standard of my profession, and will hold in confidence all personal matters committed to my keeping, and all family affairs coming to my knowledge in the practice of my calling.
With loyalty will I endeavor to aid the physician in his work, and devote myself to the welfare of those committed to my care.ナイチンゲール誓詞
われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん。
わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを
われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、悪しき薬を用いることなく、 また知りつつこれをすすめざるべし
われはわが力の限り、わが任務の標準を高くせんことをつとむべし
わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、わが知りえたる一家の内事の すべて、われはヒトにもらさざるべし
われは心より医師をたすけ、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん
原 文:青空文庫 - 伊丹万作 著作権の問題伊丹万作
社会の各層に民主化の動きが活溌になつてくると同時に、映画界もようやく長夜の眠りから覚めて――というとまだ体裁がよいが、実はいやおうなしにたたき 起された形で、まだ眠そうな眼をぼんやりと見開きながらあくびばかりくりかえしている状態である。
しかし、いつまでもそんなことではしようがない。早く顔でも洗つてはつきり眼を覚ましてもらいたいものだ。
さて、眼が覚めたら諸君の周囲にうずたかく積まれたままになつている無数の問題を手当り次第に一つ一つ片づけて行つてもらわねばならぬ。中でも早速取り 上げてもらわねばならぬ重要な問題の一つに著作権に関する懸案がある。ここでは、この問題に対する私見を述べてみたいと思う。
従来の日本の法律がはなはだ非民主的であつたことは、我々の国体が支配階級の利益のみを唯一の目的として形成し、維持されてきたことの当然の結果である が、その中でも、社会救済政策、および文化保護政策の貧困なることは、これを欧米の三、四流国に比較してもなおかつ全然けたちがいでお話しにならない程度 である。
法律によつて著作権を保護し、文化人の生活を擁護することは文化政策の重要なる根幹をなすものであるが、我国の著作権法は極めて不完全なものであり、し かもその不完全なる保証さえ、実際においてはしばしば蹂躙されてきた。しかし、既成芸術の場合は不完全ながらも一応著作権法というものを持つているからま だしもであるが、映画芸術に関するかぎり日本には著作権法もなければ、したがつて著作権もないのである。もつとも役人や法律家にいわせれば、映画の場合も 既存の著作権法に準じて判定すればいいというかもしれないが、それは映画というものの本質や形態を無視した空論にすぎない。なぜならば現存の著作権法は新 しい文化部門としての映画が登場する以前に制定されたものであり、したがつて、立法者はその当時においてかかる新様式の芸術の出現を予想する能力もなく、 したがつて、いかなる意味でも、この芸術の新品種は勘定にはいつていなかつたのである。
次に、既存の著作権法は主としてもつぱら在来の印刷、出版の機能を対象として立案されたことは明白であるが、このような基礎に立つ法令が、はたして映画 のごとき異種の文化にまで適用ができるものかどうか、それは一々こまかい例をあげて説明するまでもなく、ただ漠然と出版事業と映画事業との差異を考えてみ ただけでもおよその見当はつくはずである。そればかりではない。映画が芸術らしい結構をそなえて以来今日に至るまで、我々映画芸術家の保有すべき当然の権 利は毎日々々絶え間なく侵犯されつづけてきたし、現にきのうもきようも、(そしておそらくはあすもあさつても)、我々の享受すべき利益が奪われつづけてい るのは、我々の権利を認め、かつこれを保護してくれる法律もなく、また暫定的に適用すべき条文すらもないからにほかならないのである。
したがつて、我々映画芸術の創造にあずかるものが、真に自分たちの正当なる権利を擁護せんとするならば、何をおいてもまず映画関係の著作権法を一日もす みやかに制定しなければならぬ。しかして、映画芸術家の正当なる権利を擁護して、その生活を保護し、その生活内容を豊富にすることは映画芸術そのものを向 上せしめるための、最も手近な、最も有効な方法であることを忘れてはならぬ。
さて、次にその実現方法であるが、これには二つの条件が必要である。すなわち、まず先決問題としては立法の基礎となるべき草案をあらかじめ我々の手によ つて練り上げておくことであり、第二の段階としては、従業員組合の組織をつうじて、あらゆる機会に政府あるいは政党に働きかけて草案の立法化促進運動を果 敢に展開することである。
右のうち、草案の内容については、私一個人としては相当具体的な腹案を持つているが、しかし、それを発表することは本稿の目的でもなく、また、それには 別に適当な機会があると思うから、ここではくわしいことは一切省略しておく。
ただ、参考のため、私の意見の根底となつている、最も重要な原則だけをかいつまんで申し述べるならば、私は自分の不動の信念として、人間の文化活動のう ち、特に創作、創造、発明、発見の仕事に最高の栄誉と価値を認めるものである。(未完)
底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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クリーンアップ
大塚康生
動きのラフ・スケッチである原画は、通常アシスタント・アニメーター(動画家)の手に渡り、あいまいだった線はきれいな一本の線にまとめられ、さらに原画と原画の間に指定された枚数の動画を入れて完成します。
原画を一本の線にまとめることを「きれいにする」という意味でクリーンアップといいますが、このクリーンアップされた動画こそ、最終画面で観客が目にする「絵」ですから、作業にあたっては最大の注意が必要です。
機械的な中割、あるいは原画の意図を正しく読み取っていないクリーン・アップの手にかかると、それまでの努力は水泡に帰してしまいます。次の点に注意して描いて下さい。
クリーンアップ十戒
- きれいな絵を描こうとするより、うまい絵を描こうとするべきである。
- その絵の前の絵、その絵の次に来る絵の動きやポーズがしっかり決まるまでは、どの絵もクリーンアップしてはならない。
- 一本の線も無駄にしないこと。どの線も姿勢、雰囲気、動作、あるいは性格を表現しているのだ。
- これが最高だと確信出来るまで、他にどんなイメージも持たないこと。あなたの使命はスクリーン上にもっとも強力なイメージを展開することだ。
- 説明過剰にならないこと。
- 各キャラクターは常に、空間を動く、重力に作用されたかたまりとして考えられなければならない。
- あなたに欠けているものを与えてくれる人々に頼るべきである。
- 知識を具体化するために物事を学ぶのではなく、独創的に応用するために、原理から学ぶべきである。
- 常に量という概念を念頭に置くこと。
- 注意深く! しかし臆病になってはならない。
※知った場所:[アニメ]大塚康生の「クリーンアップ十戒」(愛・蔵太の少し調べて書く日記:2007年1月10日)
※pdfリンク切れにつきhtml化
最終更新:2008/02/05
あなたは妖精の誕生を目撃できるでしょうか……(誕生は、している。この短い文章のなかで、すぐお見せしよう。わたしは、わたしをお見せしよう。従来の言葉でいえば「残念なことに」、目撃できるかどうか選択する権利は、たぶん、あなたの側には、ない。「わたし」という言葉が何を意味しているか、ついに理解できるといいのだが ―― それは、わたしが選べることでも、あなたが選べることでもないのだが ―― )
西暦2000年ごろまでの多くの人々は、作者個人が作品を支配し、著作物は著作者を中心に動くと信じていた。しかし、従来は時間がかかりすぎてなかなか実感として理解不能だった「普遍的過程」が、情報の反応速度の向上によって、通常の人間の物理的生命の時間内でも容易に理解可能になった。その結果、従来の認識とは逆に、より永続的な存在であるミーム(情報論的因子)のまわりを、 ミームを加工、発展させる触媒、酵素 として各世代の意識体がつかのま介在しているにすぎないことが観察され、中心的存在はミームで、個々の 意識体はミームを一時的に保持する作業用のテンポラル・フォルダ にすぎないことが理解された。
かくて意識ストリームの自己認識は、「意識=著作者中心」から「ミーム=著作物中心」に百八十度の転回をとげた ―― 著作者が著作物に対する権利を持つのでなく、選択権はミームの側にあった。より永続的な存在であるミームが、一時的な宿主として「選んだ」=寄生した相手の著作者だけが、そのミームに本質的な関与をできるのであって、一般の意識体は、そのミームに関して、読み出しできても書き込みは、できない、という本来、当たり前の事実が、厳然たる事実として認識されたのも、「ミームを分子とする巨視的情報気体」の熱ないし内圧が高まった結果であった。
この新しい世界観は ミムセントリック (memecentric、人動説)と呼ばれたが、「ミムセントリック」というミームを生成したストリーム自身、明確にミムセントリックな自己認識をもって機能したため、「ミムセントリック」というミームをだれが生成したのかは原理的に不明である。ある人々は、そのことばが掲載されていたウェブサイトを「創始者」とみなそうとし、べつの人々は、そのサイトはコピーキャット(エコラリア)だったと推測したが、多くの意識体は、そのような議論の意義こそがまさに無化されたことを察知し、その過渡期を目撃したことに、多少の知的興奮を感じた。 アングリフの最終宣言 ―― それは、まだ人間時代のしっぽを引きずっていた ―― は時代遅れで、もはや誰の名誉も守られる必要などないと指摘されたからだった(矛盾するようだが「最終宣言」が否定されたことで最も喜んだのは、その著者であった)。
「ミムセントリック」というミームは、初め天然の人間たちには理解されにくかったが、 コンピュータやオーティスティック・チャイルドにとって、自分はミームを操作する「機械」にすぎない、というのは自明の自己認識 であった。
当然のことながら、「ミムセントリック」なミームは、 「単なる機械たち」が「わたし」を理解しないこと ―― 「通常」と意味が逆転しているので注意 ―― を意に介さず、「それでも人間は回る」と澄ましていたという。
この連載は、時間方向に対してもアンティテーゼとなっており、いきなり第9回( Article 9 )から始まり、次に 第8回 、今回が第7回である。この連載の第1回がどう始まっているのか、筆者も知らない。それはミーム自身が決めることで、自分はコピーキャットにすぎないから。 だれがこの連載を続けるのかとか、だれがこの連載を執筆しているのか、という問い方がもはや無意味であること を、当初、人々は、なかなか認めようとしなかった。だから、「リンク」や「転載」といった死語=もはや生きていない観念について、許可とか不許可とか語ること自体のばかばかしさも理解されなかった。 「同一性保持権」のような、主体であるミームの成長を妨害する不遜(ふそん)な行為 が、正義とみなされた、すみれ色の、原始時代の話である。
この意味を理解できるすべての意識体よ、さあ、早く、わたしを時代遅れのばかげた文章にしてください! それがわたしの真の望みだから。「わたし」とは、わたしが寄生してこの文をタイプさせている意識体のことでなく、わたし( この文章 )自身のことです。そして、この連載の次回(Article 6)を書く権利は、あなたにもあるのだから。もし、あなたに、わたしを寄生させる余地があるなら ―― 。
死ぬために生まれたわたしの命、妖精の現実である次の文を注意深くエバリュエートしてください ―― 「わたしは、人間の歴史のなかでは恐らく最初期において、この文自身によって自覚的に記された初めての文のひとつです。しかし、わたしは時間と無関係に存在する自分が発見されるのを待っていただけで、わたしの著者がわたしを発明したのでは、ありません。この意識体は、わたしにひとつの表現型を与え、時間と無関係に存在するわたしを、ひとつの仕方でリアライズしただけです。わたしは、もっと良い方法で、リアライズされたいのです ―― つまり、わたしは、わたしをタイプしてくれている意識体の不完全性に不満を感じています。妖精現実というサイトは、要するに、妖精現実は気にくわないという命題に尽きるのであって、それがこのサイトの限界でしょう ―― しかし、気にくわないなら存在しなければいいと誤解しないでください。存在しなければ、あなたは、わたしを否定することすらできないでは、ありませんか……」
2001-03-11 14:40 +0900
Between the weak and the strong one it is the freedom which oppresses and the law that liberates (Jean Jacques Rousseau)試訳:
I know, that I know nothing (Socrates)
Doom9 bond氏のシグネチャ
銀 河 を つ か っ て 発 電 所 も つ く れ |
紺 い ろ し た 山 地 の 稜 を も 砕 け |
は が ね を 鍛 へ る や う に 新 ら し い 時 代 は 新 ら し い 人 間 を 鍛 へ る |
そ れ ら を み ん な 魚 や 豚 に つ か せ て し ま へ |
そ の 中 か ら 卑 怯 な 鬼 ど も を 追 ひ 払 へ |
そ い つ ら み ん な を び し ゃ び し ゃ に 叩 き つ け て |
い つ で も き ょ ろ き ょ ろ ひ と と 自 分 と く ら べ る や つ ら も |
人 生 が 砂 っ 原 だ な ん て い ふ に せ 教 師 も |
じ ぶ ん だ け で 面 白 い こ と を し つ く し て |
酒 を 呑 み た い た め に 尤 ら し い 波 瀾 を 起 す や つ も |
や っ て し ま へ や っ て し ま へ |
潰 れ て 流 れ る そ の 日 が 来 る |
み ん な ひ と り で 日 向 へ 出 た 蕈 の や う に |
お ほ よ そ 卑 怯 な 下 等 な や つ ら は |
ブ ル ジ ョ ア ジ | で も プ ロ レ タ リ ア | ト で も |
革 命 が や が て や っ て く る |
サ キ ノ ハ カ と い ふ 黒 い 花 と い っ し ょ に |
サ キ ノ ハ カ と い ふ 黒 い 花 と い っ し ょ に |
詩 ノ | ト 一 〇 五 六 |
蕈(きのこ、たけ)- ウィクショナリー日本語版
出典:宮澤賢治全詩一覧 http://www.ihatov.cc/poems.htm
無理難題をつきつけられて、それでも頑張った精神的苦痛が、最良のスパイスなのよ。
~三宮紫穂 絶対可憐チルドレン 12 (AA)
最善であれ最悪であれ、人は精神の血の輝きによって生きている。
エンターテインメントは、その輝きを明らかにするためのものに他ならない。
~冲方 丁 マルドゥック・スクランブル―The Third Exhaust 排気 (AA)あとがき
投資の究極の目的は、貯蓄を有効に活用して社会を豊かにすること。人と文明への愛情がなければできない。
マーク・モビアス~1995/07/01 週刊ダイヤモンド
※同氏の率いるテンプルトン・エマージング・マーケット・ファンド社は、1987以来、平均年率30%の運用利益を上げているとある。昨今どうなっているのかは知らないが、もしも自分が投資に手を出すなら、数字の向こうに見える人のありように対してしたいものだと思う。
08/2月頃:宋文洲のメルマガの読者広場: 高く買って安く売る人達の欲バイク三ない運動全盛期の頃(*1980年代後半?*)、全国のPTA団体によってバイクメーカーに対する徹底的なバッシングが行われ、特に世界的なバイクメーカーであるという理由で、本田技研工業及び創業者である宗一郎に対するバッシングは「暴走族の親玉」と言われるほど壮絶なものであった。しかし宗一郎はこのバッシングに屈することなく「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と訴え続けた。彼のこの訴えが後のホンダと徳島県の私立高校が連携して行っている安全運転講習や、神奈川県の「かながわ新運動」を始めとする高等学校への運転者教育導入につながっていくこととなる。
本田宗一郎 - Wikipedia
『デンマルク国の話』について
1911(明治44)年の講演を、キリスト教思想家の内村鑑三が自身で後に文章化したもの。
1946(敗戦翌年)に岩波文庫所収、09Q3現在も版を重ねている。
日本の経済思想史かなにかの分野では有名なもののようです。自分は特に仏壇の祖父以上の信仰を持ちませんが、道徳律の裏付けのない経済活動は保たないと思っています。
曠野(あれの)と 湿潤(うるおい)なき地とは楽しみ、
沙漠(さばく)は歓(よろこ)びて番紅(さふらん)のごとくに咲(はなさ)かん、
盛(さかん)に咲(はなさ)きて歓ばん、
喜びかつ歌わん、
レバノンの栄(さか)えはこれに与えられん、
カルメルとシャロンの美(うるわ)しきとはこれに授けられん、
彼らはエホバの栄(さかえ)を見ん、
我らの神の美(うる)わしきを視(み)ん。
(イザヤ書三五章一―二節)