Audit(公査)Bureau(機構)of Circulations(部数)の略称。
新聞/雑誌発行社からの部数報告を公査しその結果を公表する団体。
結果は、「ABCレポート」として会員へ配布される。種類は二つ:
これらの数字は08/02月以降、ウェブ上でも公開されている模様だが、いずれにせよ一般公開ではない。広告主でも会員になれるので、大きな会社は入会して公査レポートの数字を貰い、広告出稿の参考にしているようだ。賛助会員でもある程度の情報を貰えるらしく、会員名簿にはメディア研究の大学機関なども載っている。
新聞や雑誌に広告を出す場合、「ウチの発行部数はこんなにあるので、広告代はこんだけください」という話になるが、そこで水増し部数を言われても通常、広告主には確認手段が無い。
それぢゃマズいだろ(新聞/雑誌というギョーカイ全体が社会から信頼を失ってしまふ)という事で、始まったと思われる。
ひらたく言うと、広告費の相場決めるのにズルが無いよう相互監視しましょうね! みたいな。
1914年* にアメリカで誕生。世界各国に存在し、役割も共通。大原則は、広告スペースの売り手である発行社*、買い手である広告主**、それを仲介する広告会社***、これら三者の共同機関であること。日本では1952年にABC懇談会として発足、1958年通商産業省(現経済産業省)により社団法人として認可。
1895頃より、ジョーゼフ・ピューリツァーと激しい部数競争。両者ともイエロー・ジャーナリズムとかポピュリストとか呼ばれつつ(アオリ気味の論調で)事業を拡大、今日の国際通信社や雑誌発行社の基礎を作る。
数を売るならナニカを叩くのが手っ取り早いし、ヒトは「正しい事」が大好きだ。→米西戦争。
そして「正しい事」の源は信頼を受ける。後、ハースト、ピューリツァーともに米国下院議員。
ちなみにイタリアの第74代、79-80代、82代首相を務めるシルヴィオ・ベルルスコーニは、全国的な地上波放送を行う民放4局のうち3つを所有、イタリアのメディアの70パーセントをコントロールするといわれる。
wikipediaには、ピューリツァーは1892年にコロンビア大学に世界初のジャーナリズムの学校を設立する金銭を提供することを申し出たが、大学はその申し出を拒絶したとある。新聞なんざロクなもんぢゃないという事かもしれないが、コ大は学長が変わった後、ジャーナリズム大学院を設立しているので(1912)、ものの見方は人次第という事かもしれない。一般に「良いところなど一つもナイ(悪いとこなど~、でも可)」には害の方が多いし、既存分類ぢゃどもならんとみれば速攻で拠点を作ってしまうのがアメリカの大学の怖さだ。
*発行者
新聞社の加盟は多いが、雑誌/専門誌/フリーペーパーの加盟率は必ずしも高く無いらしく、日本ABCではたびたび加盟促進キャンペーンをやっている印象。
たくさんある公益法人(社団や財団)は、「ああ、おたくは公益性がありますね」という認可を担当官庁から貰い、見返りに天下りの席を用意する。会費で支えられてるので「民間団体」。でもやるのは「公益事業」。でも「ギョーカイの意向」は無視できない。天下りを受け入れない「キレイな団体」は脇に置く。
ギョーカイから見た天下りは、霞ヶ関の情報を取り、そこに自分らの意向を伝える媒体だ。
霞ヶ関から見た天下りは、ギョーカイの情報を取り、そこに自分らの意向を伝える媒体だ。
公益法人は、対官ロビーの場でもあり、霞ヶ関の手足(産業政策の調査/立案/実行機関)でもある。
例えば官僚が政策や法案を考える時には、各種公益法人の情報を下地にする。
この「事実上の行政機構」は、受益者負担で機動的。一心同体不透明。
吉:「諸外国ではあり得ない低コストと速度で、行政が進む。ただし外国からは不透明」。
凶:「政府と業界が一心同体で動き、しかも利権くさい。かつ国民と外国に不透明」。
「コクミンのしあわせ総量」を増やすのが吉、減らすのが凶。
「もはや戦後では無い。今後は自前の技術開発が成長の鍵を握る」とか、「追いつき追い越せ!」とか、ギョーカイもカンリョーも、おとなもこどももおねーさんも、みんなが「そうだそうだ」と思ってりゃ、このシカケも悪く無い。
「みんなのキモチ」がバラけだすと、非民主的で不透明で利権がロビーで腐敗腐敗!とか、なりがち。
経済が、輸出主導型→内需主導型になってくると、あるギョーカイの利益は他のギョーカイの不利益になりがち。全国民に影響するギョーカイの利益増大は、全コクミンの不利益になりがち。
全体としては「事実上の行政機構」 は、内需主導型経済に向かない印象がある。しかし「透明で民主的な行政機構」は、税金で運営するものだ。端的には、買えば数万はする「XX産業の市場規模と今後の動向」を「どうぞ!」「どうも!」とは行かなくなる。そのほうが独立系シンクタンクの売上げが上がるが彼らの売値は一桁違う。出所は税金になる。
吉凶は、シカケにも依るが、ヒトに負う部分もデカイ。
専務理事は、一般に天下りで、唯一の常駐役員。大きな公益法人では霞ヶ関のキャリア組の事が多い。
タマにいるのよそーゆーヒトが。
***以下、地の文は引用、緑字が本文、文字装飾オレ***
2007/11・12
日本ABC協会専務理事 岡本明寿
最近、関係者から「ABCが発表している新聞部数は印刷部数だ」との声をよく聞く。
※広告主は「商品購買に繋がった広告の数」を知りたい。ダメならせめて「実売部数」を知りたい。
ABCの新聞部数は、本社が販売店へ送付した部数であり、読者へ販売した部数ではない。相当程度の配達予備紙を含んでいる部数は印刷部数にほかならない、との認識があってのことだ。
※「配達店に届く部数は、予備大杉!もっと正確な数字ぢゃなきゃ役に立たない!」の意。
新聞部数公査は、新聞部数公査規定に基づいて行っている。この規定は、1960年6月に制定されたもので、前文に「販売部数とは、販売店または本社が読者から定価で集金した部数をいう」と、その精神をうたったところに意義があった。しかしながら規定本文では、「戸別配達部数は、発行社が販売店に送付し、その原価を請求した部数とする」とあり、明らかに矛盾を包含している。正常販売を前提に、販売店の予備紙は2%以内におさまるので読者販売部数としてさしつかえない、との考えから生まれたいわば見なし規定であった。
また、81年4月に所管の通産省(現経産省)から『戸別配達部数』の表示は不正確であるとの指摘を受けて、この年6月に『販売店部数』に改め、同時に精神規定の「読者から定価で集金した部数をいう」も削除された。これらの背景には、75年ごろから始まった販売競争の激化があり、77年7月には、日本新聞協会加盟各社が販売正常化宣言声明を紙面発表するまでに至った。
公査規定の後退ではあったが、現実に即して脱皮したともいえよう。
※「戸別配達数」も「販売店部数」も、新聞社が配達屋さんに「押売り」すれば増える。現実はともかく、構造的にはそういう欠陥がありますね、という話。
現実に「押売り」があるか否かは不透明だし、あったとしても、多少なら「それが世の中ってもんでしょ」と言うところ。
だがしかし、もしも、万一、あまりに「押売り」がはびこれば、「ちきしょー、もっと立場の弱いヤツに押売りしてやるぅ!」という販売店がでてくるだろう。
以下のような話はわりと見つかる。
【前労連副委員長・小関勝也】※新聞労連機関紙2007年8月号より
- 3年間のうち1年間無料にするからと勧誘を受け、断ったがビール券を渡され名前だけ書くよう言われて、仕方なくサインした。その後2回ほど電話で解約を申し入れたが「契約したのだからやめられない」と言われた。(85歳女性)
- 同居の母(79歳)が来月から10年間の新聞購読契約をしていることがわかった。母は「名前を書いて」と言われて契約書にサインさせられたが、内容がわかっていなかった(57歳男性)
- 高齢の母(80歳)が、父(91歳)の名義で5年前に契約。3年契約の契約書が7枚で合計21年間の契約。父は当時から認知症気味だった。解約を申し入れたが「日常家事債務なので有効に契約成立している。亡くなったら子供が引き継いで新聞購読料を支払ってくれ」と言われた(60代女性)
- 各地の消費生活センターでも新聞勧誘のトラブル件数は長年上位にランクしている。大阪府消費生活センターの2005年度消費生活相談でも訪問販売部門で5位以内入っている。
- 電話相談を行うため、同ネットでは新聞公正取引協議委員会が発行する「わかりやすい新聞販売の諸規則」を50冊買い込み、会員らで学習した。事務局長の井上智加子さん(司法書士)は「こんな立派な規約があるのに、なぜ守られないのか…」と不満を募らせる。
- また、電話相談実施の記者発表を事前に行ったのに、お知らせ記事を書いたのは1紙だけ。「なぜ新聞は自分たちの問題を報じないのか」と嘆く。
- 同ネットは、販売契約問題での発行本社への連帯責任を求めて新聞協会への申し入れを行う予定だ。あまりにもひどい契約内容については、訴訟を起こすことも検討している。
- このような非常識な売られ方に怒る消費者団体の声に対し、新聞各社は「販売店や拡張団がやっていること」として目を背け続けている。
「しんぶん販売考」第8話 - 新聞労連より抜粋。
労組とかよくわからないが、新聞が月3000円として、21年だと75万6千円。法律上は日常家事なんとかかも知れないが、金額的には改築詐欺やオレオレ詐欺扱いでも良さそうだ。
ここまででなくとも新聞勧誘はやけにしつこい。世に押売新聞などと揶揄される由来であろう。こうしたトラブルが「長年上位にランクしている」のは、なんらかの構造的な問題がある兆しだ。販売店は正体不明のヤクザ企業ってわけでもないし、興味ないのですかね「ジャーナリズム」を標榜する方々は。
個人的な見聞の範囲では、新聞社の人とたまたま新聞勧誘の話題が出た時に、眉を顰めて「ああ、あいつらは」と言うのを聞いた事がある(まったくねー困りますよねー)。別の新聞社の人に新聞社の新入社員研修ってどんな事すんのと聞いたら、販売店に行って、缶コーヒーごちそうになって半日お話して帰って来たとか、そんなカンジと聞いた事がある(それだけぢゃなかったが、販売店絡みはそれだけだった)。
新聞社はどこも組織がでかいので個々の人たちをどうこう言う気はないが、マスプロダクションの世界で流通との接点が弱いのは、お客の動向に目を閉ざすに近い。
公査は本社調査と販売店調査に大別される。
本社調査のポイントは①報告部数に見合う新聞用紙の購入と使用の確認②販売店への新聞代請求と入金の確認-で、最終的に経理帳簿への連絡確認にある。大方の社では、総勘定元帳ひいては営業報告書が提示され、販売店へ送付した部数は十分な立証を得ている。
※新聞社が発送した数は、帳簿で裏が取れている。
難しいのは販売店調査だ。新聞社の部数規模に応じて、調査店数を決め対象店を指定する。
調査内容は①新聞代支払いの確認②送付部数と配達部数の確認③購読者部数・売上額と集金額の確認-となる。
調査に当たって最も留意する点は、提示資料の信頼性だ。このため、公査実施通知に「販売店での資料は、日常使用されているものを長期間にわたりご提示ください」との断り書きを同封して協力を依頼している。
難しいといったのはまさにここにある。公査員は知識と経験により、店主との会話などを通じて資料を見るまでもなく、その販売店の状況はおおよそ把握できる。ところが、にわか作りの資料でかつ提示期間が短いといったケースに遭遇することがままある*。理由は購読率を上げるための工作にほかならない**。この場合は記録・集計を控え、「資料に日常性なし」「資料不十分」などとして扱っている***。
※ここはちょっとスゲェ事を言っている。
* 販売店が、「でっち上げの偽帳簿」を用意して待っているという事。これは実施通知など出さず「抜き打ち公査」をやれば対抗できるはずだが、ABCは税務署でも社内監査でもなく「会員企業にご協力を御願いする立場」だ。そこまでは難しいだろう、、、にしても「うそつきは見ればわかる」ってあーた、会員企業に向かって^^;。
なお、「ままある」の具体的な比率は、後で出てくる。
** 実際にお客さんに配達した数が低いと困るケースには、以下の二つが考えられる。
あくまでも仮定である事に注意されたい。
だがしかし、購読率の偽装は、広告スペースを巡る三者(売り手、買い手、仲介者)のうち、売り手と仲介者の利益となり、買い手の損になる。 もちろん、偽装は不正でうそつきだ。
だがしかし、もしも偽装バレバレ・信頼グズグズだったとしても、他によりよい広告手段がない限り買い手は逃げない。くぬやろ足許見やがって! と思いつつも広告出したきゃ払うしか無いが、万一、ソレが出て来た時にはそっちに流れる。
【関連】独立資本系、全戸宅配型フリーペーパー。創業者の言。
- 『地域新聞』創刊1984:広告代理店を通さず、飛び込みで「こんな広告打ったら、これだけ営業が伸びますよ」と言えるノウハウを蓄積。夫婦二人で始め、発行地域で大手三紙より高い世帯普及率を誇る(千葉県八千代市で大手3紙73.5%に対し90.5%、2002実績)。2007にヘラクレス上場。
- 『ぱど』創刊1987:日本の新聞折り込みチラシの広告料金は、各社横並びで思いのほか高い。2~3割安くしても採算は取れると考え創業。2001に発行部数1000万部(ギネス入り)。
- 『月刊ぷらざ』創刊1987:「印刷代とオリコミ代が高すぎる」のが創刊のきっかけの一つ。地方(佐賀市)の印刷業の生き残り策として参入。広告料金は「新聞折り込みの半値」。1991に全国の印刷業者にノウハウを提供し、印刷機の共同購入なども行う「全国ぷらざ協議会」を結成。
【資料4番】フリーペーパーの衝撃 (集英社新書 424B)より抜粋・要約
お客さんに届かないでは広告にならない。より安く、より確実に届くならそのほうが良いに決まっている。
***「資料に日常性なし」「資料不十分」などの定型用語の存在は、それが必要になるほど多発している事を示す。偽装工作は根絶を目指さねば、ABCの存在意義にかかわるように思う。
「抜き打ち公査」は難しいとは思う。しかし、新聞は再販価格指定制度で特別な保護(値引きの禁止等)を受けている。特別な保護を受ける以上、特別な義務を負う。文化やジャーナリズムは別のレイヤーの話。
それにしても「工作」とか「見ればわかる」とか、この手の文書としちゃハッチャケまくりだ。
第24回新聞公査は、この9月に2年にわたる全国79紙を終了した。販売店調査の結果、正常終了46、注意文書送付19、その他14の結果をみた。
※全国79紙中、41.7%に公査上の問題がある。
注意文書送付19の大半は、異常に高い非販売率が算出されたもののほか、日常性に欠ける資料提示のものであった。また、その他14は、大量のサービス紙がはびこっているか、世帯普及率と配達部数の関係が正常でない(販売店送付部数から算出した普及率は高率。実態からみて販売店での残紙は相当あるはずなのにそれが出てこない*)などであった。
今回の公査では 618店の販売店調査を実施したが、平均非販売率は8.7%の高率を示した。この傾向は97年10月開始の第20回公査 6.8%から顕著になり、第21回 7.1%、第22回 7.5%、第23回8.5%と悪化の一途をたどって現在に至っている**。
日常性のない資料提示社には次回公査での実態提示を強く求めているが、より深刻なのは、異常に非販売率の高い社の扱いだ。新聞部数公査規定には「調査した販売店において、販売店到着部数と、読者へ販売した部数との関係が著しく正常でないと認めた場合は、認証保留とする」との条文がある。このため該当社には減紙を要請し、部数レベルの調整を行っている。
健全な販売店経営での非販売率は、5%以内と考える。事実、89年から96年当時までの販売店調査非販売率は4%台で推移していた。2%には及ばないまでも、この程度の数値であれば『印刷部数』との見方はされないであろう。
* 非販売率が高いのなら、そのぶん広告費は負けてくださいねというのが広告主。お客に届いてないのだから。
勝手にサービス紙を配るのなら、そのぶん広告費は負けてくださいねというのが広告主。どこに届くかわかりゃしないんだから。
【関連】『押し紙』について。
「押し紙」とは、新聞社→販売店の間に押売りがあり、結構な数が売る事も処分することもできず闇に廃棄されていると言う噂(参考:新聞販売黒書)。
闇投棄の部分が解せなかったが、公査をゴマカス必要があるなら、帳簿に「産廃処理費」なんて書けない。普段から闇投棄しちまえば経費も浮くし(いや損切りか)公査通知が来てから「うわこれなんて書き換えよー」とアタマ使う必要も無い。
しかし、ちょっと解せない部分もあるので、自分はまだちょっと噂あつかいにしている。極端な話、県内の販売店が連帯して配達ストを打てば、新聞社の売上げは駅売りとコンビニだけになる。それで新聞社が知る権利だの責任放棄だの言うならてめぇらで配れって言ってやりゃいいぢゃねぇか。などと思う。より穏当にいくなら経営統合。新聞社ごとの配達店がばらばらあるのって「私の町の電気屋さん」の時代のやうだ。合体して体力つけりゃ新聞社もぞんざいな扱いはできまいに、などと思う。定期購読の雑誌とか、牛乳配達とかもやってくんないかな。
戸別宅配という生命線を握ってる側のほうが弱い、というのが「押し紙」でざっとググった時の疑問点だ、、、なんか分断統治するシカケでもあんのか。でも、一番大きいのはきっと、新聞で見た事ないからだという気もする。
**平均非販売率の推移。
定例公査(新聞は2年掛かり) | 平均非販売率(%) |
第20回(97/10月~) | 6.8 |
第21回(99/10月~) | 7.1 |
第22回(01/10月~) | 7.5 |
第23回(03/10月~) | 8.5 |
第24回(05/10月~) | 8.7 |
理想は2%。5%以上だと販売店の経営が健全でなくなる。不健全経営というのは数字だけでなくいろいろな形で吹き出す。例えば「無理な勧誘」。
この数字が伸びれば伸びるほど、広告主も「新聞社の言い値」に疑問の目を向ける。
「ウチの発行部数はこんなにあるので、広告代はこんだけください」という話の時に、この数字を出して「いやぁ、そっから1割は引いてもらわんと!」、、、とは言わないか。
フリーペーパーなら3割4割は当たり前、だ。新聞広告より折り込みよりセグメントをしぼった広告が打てる。確実に届くのか?は、実はあんまり大きな問題じゃない。客数と売り上げが問題だ。3割4割でそれが変わらないなら、残りは利益にしても良いし、少しくらいは新聞広告に回しても良い。
低落傾向はABC新聞部数データからはっきり読み取れる。00年からの2年間、4700万部台で比較的安定していた朝刊部数は、02年からマイナスに転じ、03年以降は4600万部台に後退した。00年と06年の対比では70万部近くも減じている*。夕刊の落ち込みは目を覆うばかりだ**。00年から01年では 17万部減り、以後前年比減は42万部、19万部、18万部と続く。00年と06年の対比では何と 140万部減らしている。
当然ながら、世帯普及率も下降の一途をたどっている。00年の世帯数は約4740万で、以後毎年ほぼ60万世帯ずつ増え、06年は5110万世帯と00年より 370万世帯増えているにもかかわらず、普及率は98.5%から90.2%と8.3ポイントも減らしている。いかに新聞離れが加速しているかは一目瞭然である。
「読者の新聞離れ」ではなく、「新聞の読者離れ」ではないか。第60回新聞大会研究座談会での発言は、様々な意味を内包している***。新聞用紙代の値上げ、あるいは消費税率の引き上げが目前に迫っており、新聞を取り巻く環境は厳しい。
今こそ正常販売に真剣に取り組む時機ではないだろうか****。
* 本文中の数字をベタで表化。
新聞部数 | 夕刊のみ | 世帯普及率 | 総世帯数 | ||
(前年からの減少ぶん) | 00年からの減少ぶん | ||||
00 | 4700万部台 | - | - | 98.5% (4669万) |
約4740万 |
01 | 4700万部台 | -17万部 | -17万部 | - | 約4800万 |
02 | 4700万部台 | -42万部 | -59万部 | - | 約4860万 |
03 | 4600万部台 | -19万部 | -78万部 | - | 約4920万 |
04 | 4600万部台 | -18万部 | -96万部 | - | 約4980万 |
05 | 4600万部台 | -22万部程度 | ? | - | 約5040万 |
06 | 4600万部台 (00年-70万) |
-22万部程度 | -140万部 | 90.2% (4609万) (00-60万戸) |
約5110万 (00+370万) |
【表について】
【関連1】格差社会について
これが、報道の使命などの雑音の無い「ふつうの市場」であれば、新聞はフリーペーパーなどの超低価格路線と、アフタヌーン並みに分厚い高額路線に分離してゆく筈だ。
※なお、相対貧困率には疑問もあるので注意されたい[相対的貧困率の国際比較]。
【関連2】可処分所得の高い層
でも余裕のある層が読むフリーペーパーてのもある。以下も【資料4番】フリーペーパーの衝撃 (集英社新書 424B)より抜粋・要約。
aheadに至っては代理店もすっ飛ばしている。大企業内部でも「宣伝部」にはCI機能だけを残し、人員を各部門の宣伝機能に振り向けている傾向があるのだそうな。それらが志向する広告は、当然「絨毯爆撃型」から「ピンポイントミサイル型」になる。
2008.2.20、電通が発表したニュースリリース「2007年の日本の広告費は7兆0,191億円、前年比1.1%増」。では、「プロモーションメディア広告費」に屋外広告、全国の折り込み料金、宅急便配達費、フリーマグの推定広告費などなどをてんこもりに拡充したり、「雑誌広告費」に専門誌・地方誌を拡張したり、いろいろとややこしい費目見直し(と、過去3年分の再計算)をしているが、これは、こうした「広告市場の変化」を捉え直そうとゆう試みだろう。
ちなみに軍事上の「絨毯爆撃」から「ピンポイントミサイル」への変化をRMA(軍事における革命)というそうだが、広告における同様の変化、すなわち、より高度な情報分析に基づく効率の高い(コストパフォーマンスの良い)広告を「広告事業における革命」と呼んでみようと思った(既に他の名前があるとは思う)。
端的に思いつきを書き留めておくと、「絨毯爆撃より、ピンポイントミサイルの方が安い」。人工衛星とかレーザー誘導とかいっこいっこは高いんだけど、サダムフセインの居そうなとこしらみつぶしに爆撃するより、ちゃんと見つけてバンカーバスター打ち込んだほうが安い。この考えで軍隊を作り直すとあら不思議「軍事費が減る」。もちろん伝統的な軍人さんは「そんなに減らしちゃダメ!爆撃機も歩兵も要らないワケぢゃない!」って言うけど、減らす事自体は反対しない。合理的だから。問題は「実戦による証明」。
これを広告市場にハメこむと、既存媒体が落ち込む代わりに新種の媒体が伸びるけど、トータルでは「企業広告費は下がる」。改革は、大企業から地元商店まで、いろんな企業がいろんな「戦場」でちまちま効果を試しながら進めるので、「変化はゆっくり」。ネット広告がどこまで伸びるかも、既存メディアがどこまで落ちるかも、誰にも予測できない。
だから、ネット広告が雑誌を抜いたなんて瑣末な事だ。なんとかマッチングとか、たかが機械の自動選別でヒトの心は掴めない。カバンからのぞいて「サマになる」のはウェブサイトぢゃない。偵察衛星で一番大事なのは、情報分析するヒトのノウハウだってばっちゃぢゃねーや、江畑さんがいってた。
大事なのは、「今、自分が売りたいものに最適なハイ/ローミックス」を見つける事だから、、、、その為の費目見直しと再計算かっ!。 さすが鬼。侮れん、、、ちっくそー。広告会社の提案にハンコ押すだけなんて仕事ぢゃないやいっ。
** 毎日新聞、北海道で9月から夕刊廃止。
08/03月発行部数 | 前年同月増減 | 前年同月比 | |
朝刊 | 約6万8000部 | 約5000部減 | 93.2% |
夕刊 | 約1万3800部 | 約4000部減 | 77.5% |
計 | 約8万1800部 | 約9000部減 | 90.0% |
値下げは理解できるが、増ページには疑問が残る。価格も問題だが、「毎日全部は読めないよなぁ」という可処分時間の問題が「無駄じゃん新聞代って」に繋がってる可能性を調べたのだろうか?
朝刊を隅々まで全部読むと、自分の読速では半日かかる。普通続かない。てゆうか思いつかない。いや、さる柔道家が引退して、世間を知る為にやったという話を本で見て一回真似したんですけどボクには無理です山下泰裕さん。
読み切れないぶんの代金は、無駄でありゴミとなりゴミ出しがめんどい。そんな"民度の低い"読者は要望なんか出さない。だまってやめる。もっとジャーナリズムに理解のある層に絞り込むなら、大増ページでお値段据え置き!になるはずで、ちょっとどっち付かずの印象を受けた。
西欧諸国の新聞は、全国ニュースは大手通信社に任せ、地元ニュースに特化する形態が主流(NYTもWPも全米フルカバーではない)。日本も戦前はそれに近かったが、戦争中に検閲の手間を省き、紙資源を節約する為に経営統合が進み、現在に至る。政治経済が東京一極集中なのでそのほうが便利だったのだろう。またこれは、ススメ一億火の玉だ、とか、追いつき追い越せとなりの車が小さく見えます、とか、特定方向の空気で世間を埋めるにも都合が良い。
しかし現在のように地域格差が開き、「東京」にもそれを埋めるカネが無いとなると、例えば北海道の読者の要望は「おれの生活には関係ないネタ(あるいは口ぶり)ばっかだな。そんな事より国の補助金はもう当てに出来ん。道経済どうすんねん」のように思う。一面トップにナニをもってくるか決める権利(編集権?)を、北海道支社に渡すとか。いっそ毎日北海道新聞に名前変えちゃうとか。
【関連】日本のニュース型フリーペーパー
これも【資料4番】フリーペーパーの衝撃 (集英社新書 424B)より抜粋・要約。
日本の特殊性はTOKYO HEADLINEの顛末に明らかだろう。新種ビジネスは有形無形の非協力に包囲され、資金が続かなくなったところで既存資本に害の無い形に調教され、その影響下に入る。というのがパターンだ。実は既存資本って竹やぶみたくどっかで繋がってんぢゃねぇかと思う。いずれ竹やぶ内部の調整が済んだら、日本でも日刊無料新聞が出るのだろう。
*** 第60回新聞大会研究座談会は、電通報 第4582号 に簡単なまとめがある。ざっと舐めた範囲では「ぼくの考えた新聞の意義発表会」のようだった。手持ちの取材・分析力が「需要」に向かってるかやや疑問を感じた。需要分析抜きで「上から目線でなく読者の視点で」をやると、見当違いの方向で汗水たらしたあげくに「僕たちここまでしてるのに」「悪いのは僕たち以外だ(ネットとか)」にはまるリスクが高い。好きな事好きなようにやるのは第一だけど、それだけぢゃナニだ。
字数の制限がないので卑怯だが、
16日午後の研究座談会では、哲学者の内山節氏が「新聞への期待-ローカルの視点から」の演題で基調講演。同氏は、都市化の進展や情報の細分化で、自分のかかわっている世界以外には無関心で、特化した世界に閉じこもっている人々が増加していることを指摘し、「外に流れている情報との間がリンク切れになって、つながらなくなっている。ここを一体誰が結び直し、解きほぐす作業をするのか、求められている。その作業は、活字メディアが大きな役割を果たしていく」と新聞への期待を示した。
これを裏返してみる。
黎明期にはちょっとスゲェ勢いで伸びている。
明治07 | 明治10 | 大正末頃 | |
東京日日新聞 | - | 8千枚 | 「百万突破」と 自称する新聞も ある |
朝野新聞 | - | 4千枚 | |
読売新聞 | 約130枚 | 1万5千枚 |
|
郵便報知新聞 | - | 2千5百枚 |
明治7-10間の読売の伸びは 11,538.4%。この勢いは、「ジャーナリズム」だろうか?娯楽だろうか?。この本には「明治十五、六年頃までの新聞配達人は、粋な男が粋な姿をしていたので芸妓などに惚れられたものである」ともある。ここまで来るとワケがわからんが、メディアは常に娯楽としてスタートし、娯楽として普及し、娯楽性を失った時に衰退する。文化だ芸術だ言い出す頃には、娯楽としちゃちとやばい事になっている。それ以上のナニカを本気で言い出すとどうなるかは知らない。
正直クオリティ・ペーパーは、利幅は厚いが部数は出ない。数ならUSAトゥデイ、とか、サンとかのほうが出る。それらすら激減してはいるのだが、新聞の基本は娯楽だ。新聞社のコア・コンピタンスは紙でも活字でも配送網でもなく、情報の収集・整理・分類に特化した組織力と資金力(あと背後の竹やぶ力)だと思う。
個々の情報や意見自体に経済価値なんか、無い。実生活に活きてこそだもの。活かし切れないほどの情報や意見を一律に大量に送りつけるのは、ただの身勝手だ。マンガや小説は面白そうか確かめてから買えるのに、新聞だけサブスクリプションで、しかも読み切れないほど降ってくる、というのは不経済だ。
ジャーナリズムとか社会の木鐸とは、別のレイヤーの話。形而上的価値観は形而下的な問題をクリアしていく過程で発生するもんだと思うのだが、、、。
**** これは「現状は異常販売」「これまで真剣ぢゃなかった」と、新聞社に向かって言い放ってるに等しい。もちろん、「ABCが発表している新聞部数は印刷部数だ」と専務理事によく言う関係者といったら、筆頭に浮かぶのは広告主会員だ。
一般に、販売が正常でないのは「価値の創り手」が自分で売って無いから。自分でアタマ下げてオカネ受け取らないと、自分が創ったもんの価値に実感がわかなくなる。読者を最重視するなら記者による戸配と集金。担当区域に顔と名前を覚えてもらって署名記事。もちろん理想論だが「そんなの記者のやる事ぢゃない」ってモロに顔に出すような世界はろ、どうかな。
自分のお給金がどこから出てくるのか実感できないと、いろいろとむなしい。むなしいと「社会の木鐸教」や「報道の自由教」の門をくぐりがちだ。アレ、最初は「新聞なんざロクなもんぢゃない」って連中とたたかう為のブツゾウだったんでないかと思うんだけどね。そこに魂を溶かし込むシカケがピューリッツァ賞、みたいな。
類例は直木賞、講談社漫画賞、日本ゲーム大賞。創設期の共通項が三つある。
人間は「ジャーナリズム」って聞くと平伏しちゃう動物だけど、それは理性で平伏してるワケぢゃない。そこに溶かし込まれたヒトダマの量を感じとるからだと思う。タマに。